繊毛虫のアニメ批評ブログ

簡潔な作品論を定期的に投稿します。

『CLANNAD 〜AFTER STORY〜』:家族の不/可能性

放送期間:2008年10月-2009年3月、本編22話+番外編1話+総集編1話

制作:京都アニメーション

監督:石原立也

原作:Key制作のPCゲーム『CLANNAD』(2004年)

 

前作『CLANNAD-クラナド-』(2007年-2008年)から本作への作品の性質の変化は、ファンタジー要素に溢れたハーレム的ラブコメから、リアリズム寄りの恋人と夫婦の物語への転換と、ひとまずはまとめることができるでしょう。そして、そうした物語面の変化は作画にも反映されているように思われます。まず、多くの場面において光量が多めでキャラと背景の境界がぼやけがちだった前作よりも、光量の抑制のきいた、それゆえにキャラと背景のコントラストが比較的明瞭な画面が支配的になっていますが、そうした変化は、物語の基本文法がファンタジー寄りのものからリアリズム寄りのものへ移行したことと対応づけられると思います。キャラのデザインに関して言えば、両目の間隔の広さと目の垂れ方がかなり強調された、様々な意味でのドキドキ感を抱かせるような前作と比べると、そうした特徴はかなり抑えられており、朋也と渚の関係を中心とした安定した人間関係を描くのに適したものになっていると言えると思います。

 

このような、男女の安定した関係を志向するリアリズム的な画面と物語は、一見するとかなり保守的な価値観を提示するものであるようにも思われます。しかし、渚が生存する時間軸を描き出す最終回の位置付け次第では、正反対の見方も可能になるのではないでしょうか。というのも、渚も汐も死んでしまう時間軸こそが「現実」のものであり、ふたりが生存する時間軸は視聴者の希望を仮構的に満たすような幻想でしかないと仮定する場合、朋也が安定した家族関係を取り結ぶことができたのは渚とその両親という他者のみ、それもごく短い期間のことであり、最終的に提示されるのは、血縁と法的関係に基づく家族というものが物語の着地点にはならないという視点であると言えるためです。最終回においては、渚も汐も死んでしまう時間軸における一連の出来事は、出産直後の渚の手を握りしめながら絶望を予感する朋也の頭によぎった幻想であり、結局は杞憂に過ぎなかったかのような演出がされていますが、視聴者がより長い時間にわたって見守るのは渚たちが死んでしまう時間軸を生きる朋也であることを踏まえれば、そうした演出をストレートに受け止めることは難しいでしょう。

 

ただし、いずれの受け止め方をするにせよ、どちらの時間軸からも一歩引いた視点に立つのであれば、主人公たちは直線的なプロットの下では幸せになることができないと言えることは確実であり、その点で本作は、2010年頃から数多く作られるようになった、『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)、『STEINS;GATE』(2011)、『僕だけがいない街』(2016)といった時間改変ものの系譜上に位置付けることが可能だと思います。また、上で触れたように、『とらドラ!』(2008-2009)や『三月のライオン』(2016-2017, 2017-2018)、あるいは実写作品であれば『万引き家族』(2018)に先駆けて、血の繋がりのない他者と家族になるという主題を描いた作品と捉えることもできますが、『輪るピングドラム』(2011)とはその両方の主題を根深く共有していることになります。つまり本作は、2010年代以降の日本の社会状況を考えるうえで欠かせないものであると言えるこれらふたつの主題を先取りしていたかもしれないのであり、その点で大きな社会批判の契機を孕む作品と言えると思います。