繊毛虫のアニメ批評ブログ

簡潔な作品論を定期的に投稿します。

『恋する小惑星』: 天地往還のエクリチュール

放送期間:2020年1月-3月、全12話

制作:動画工房

監督:平牧大輔

原作:Quro『恋する小惑星』既刊3巻

(芳文社『まんがタイムきららキャラット』にて連載中)

 

 中学時代から入部を希望していた天文部が地質研究会と合併したと聞き、不安を覚えながら「空を見上げるのと地面を見下ろすのは全然違うと思うけど……」と呟くみらに対してすずは、「そうかなあ……宇宙から見たらどっちも一緒じゃない?」と返答する。みらはその言葉をすぐに受け入れることはできず、迷いを感じながら地学部に入部するが、あおと再会してかつて抱いた夢を本気で叶えたいと思うようになるだけでなく、桜やいのに触発されて鉱物と大地にも興味を抱くようになり、天体観測や星座だけでなく、惑星探査や地質学にも興味を広げていく。つまり、みらにとって地学部は、人を介して天が地に、地が天になる場所となっていく。

 ジョン・バンヴィルの『コペルニクス博士』(Doctor Copernicus, 1976)や『ケプラーの憂鬱』(Kepler, 1981)の主人公たちが、宇宙の中心に地球がないこと(地動説)、それどころか太陽すら中心ではないこと(楕円軌道の法則)、記号および言葉と世界は一致しないこと、天上の美しさは地上の惨めさを補ってはくれないことなど、自身の科学的探求がもたらす発見に落胆し続けながら人生を生き、死んでいくのとは対照的に、みらたちには天と地をひっくり返して両者を往還し、他者の夢を自分の夢とするしなやかさがある。そうしたしなやかさは、もちろん、他者への想像力と共感を前提とする惰弱なものでもある。同じく動画工房制作の『NEW GAME!』や『ゆるゆり』といった日常系寄りの作品と比べるとキャラの配色が全体的に淡目で、特に夕暮れや夜空を背景にすると儚げな印象を感じさせることは、そうした内面的な弱さと不安定さの相関物となっているかもしれない。

 しかし、みらとあお(たち)はそうした惰弱さを補うかのように、LINEでのやりとり、地学部の会報の分担執筆、きら星チャレンジのための小論文の相互添削と、様々な種類の言語規範を介してエクリチュールの交換・交接を行っていく。つまり彼女たちは、既に色々な形で経験している天体との接触と、寝室を隣りあわせながらも未だ体験していない肉体的交接に時間的に挟まれるかのように、自分たちの文体を交わらせていく。このように登場順に並べてみると、彼女たちの書記行為は次第にソリッドなものへと向かっているように見えるし、将来的には受験勉強や研究が控えていることを踏まえればそれはある程度は正しい方向性を示しているとは考えられるが、彼女たちのコミュニケーション手段の中心はやはりLINEであり、そこでは共感的な柔らかいエクリチュールが保持される。バンヴィルの描くコペルニクスやケプラーが示唆するように、エクリチュールが固いものであればあるほど——例えば、µ(離心近点離角)=e(平均近点離角)+ε(離心率)sin µ ——既存の規範体系を鋭く破壊し、それゆえに大きな断絶と失望をもたらさずにはいないのであれば、またそうした失望を表面的にでも埋め合わせるには手紙や空想小説のような比較的やわらかいエクリチュールが結局は必要となるのであれば、一見すると淡く儚げなみらたちは、実際には非常にしたたかな言語戦略を実践していることになるのではないだろうか。