繊毛虫のアニメ批評ブログ

簡潔な作品論を定期的に投稿します。

晋三は僕らの心臓だった

2020年9月16日、安倍晋三が内閣総理大臣を辞職した。2012年12月26日に二度目の首相就任を果たして以来8年近くにわたって政権を維持し、歴代最多の通算組閣回数、歴代最長の通算首相在職日数、歴代最長の首相連続在職日数といった記録を樹立してきた安倍首相の辞任は、日本国内に大きな波紋を呼んだ……と言えるだろうか? 

 8月28日に健康問題を理由として近々辞職を予定している旨を発表した際、当然のことながら、マスメディアやネット上では様々な声が飛び交った。健康を気遣う声、労いの声、そうした言葉を促すことの不自然さを指摘する声、森友・加計問題および桜を見る会についての説明責任を追及する声、等々だ。しかし、人々の関心はすぐに、次期総裁選とその候補者たち、中でも最有力候補の菅義偉へと移っていった。党員投票が見送られることになった投票方式への賛否の声、公開討論会においてそれなりに明晰な受け答えをする石破と岸田と比較して論理的に破綻した発言を繰り返す菅に対する不安や非難の声、安倍路線の明確な継承を掲げる菅に対して「苦労人」や「可愛らしい一面」といった、政策の内実とは無関係な側面に力点を置いた報道を繰り返すマスコミに対する各種の反応——そういったものが次々にメディアおよびネット上を駆け抜けていき、9月14日には菅が新総裁に選出、17日は第99代内閣総理大臣に任命と相成った。そして、驚くべきことに、同日中に発表された日経世論調査によれば、菅内閣の発足時支持率は歴代3位の74%という数字を示したという。18日朝にはジャパンライフ山口元会長らの逮捕が発表され、一時的に安倍の名前への言及が増えたものの、S N S上は菅内閣の話題でもちきりだ。

 いや、ちょっと待っていただきたい。これでいいのだろうか。私たちはみな、ネトウヨも文化左翼も「右でも左でもない普通の日本人」も自称リベラルも、二週間前までは毎日のように安倍晋三のことを話していたではないか。安倍晋三を心から応援し、憎み、呪詛し、擁護し、攻撃し、いなくなれと望み、代わりはいないのだから一日でも長く首相の座にとどまってほしいと望んでいたではないか。毎分毎秒安倍のことを考え、心臓が脈打つたびに晋三のことを想い、焦がれていたではないか。森友加計問題および桜を見る会について説明責任を果たせ——当然だ。仕事の内容ではなく人格を否定するようなことをするな——当然だ。公的な場における答弁においては論理的で明晰な言葉遣いをし、ごまかしやはぐらかしをするな——当然だ。しかし、私たちはそうした、法律や倫理が要求する範囲を超えて彼を愛し憎んできたのではなかったか。あの論理的に破綻した革新的な日本語を攻撃し擁護するのと同じくらいに、あの舌足らずな口腔の動きと微妙な甘さを宿した声色を愛し憎んできたのではないのか。弁解が困難な状況において浮かべる焦燥に塗れた嘲の表情を心配し非難するのと同じくらいに、あの地味に弛んだ頰肉や目蓋やほうれい線から目を背け凝視してきたのではなかったか。そうした気持ちはどこへ行ったのだ。森友加計をはじめとする未解決の問題が一刻でも早く究明されるよう新政権に対する監視の目を強め、今まで以上に声を大にして不正を指摘していかなければならないのは当然だ。イメージ重視のマスコミの報道に絶えず疑義を呈していかなければならないのも当然だ。そして、しばしば言われているように、こうした当然のことでも声を大にして口にしていかなければならないということについてもそのとおりだ。あるいは、新政権が自分たちに豊かさをもたらしてくれると考えるのなら、精一杯支持すればいい。当然だ。しかし、本当にそれだけでいいのか。また同じことの繰り返しにならないだろうか。私たちはこれまでいったい何に時間と思考を費やしてきたのだろうか。何を欲してきたのだろうか。私たちは、一度立ち止まって自分の欲望を見据えないといけないのではないだろうか。あの喃語を、あの声を、あの肉襞を。そのうえで、そうした欲望と付き合っていく術を学ばなければならない。そうしなければ、限りある資源の消尽が繰り返されるだけだ。だから、安倍晋三を忘れてはいけない。退陣を喜んではならないし、「お疲れ様でした」などと言ってはいけない。目の前に引きずり出さなければならない。安倍晋三の目を通して自分自身を見つめなければならない。己の欲望に向き合わないといけない。先手を打とうとしてはならない。他者の欲望を無邪気に信じてはならない。胸に手を当てろ。そこに〈しんぞう〉がいる。