繊毛虫のアニメ批評ブログ

簡潔な作品論を定期的に投稿します。

『デュラララ!!』: 都市への書き込み

放送期間:2010年1月-6月、全24話+特典2話

制作:Brain’s Base

監督:大森貴弘

原作:成田良悟『デュラララ!!』(電撃文庫、全13巻、2004-2014年)

 

「私は頭でものを考えているわけではなかったんだ」とセルティは呟き、「怒りがわくと体が勝手に動いちまう」と静雄は口籠るが、身体による思考とはいかなる行為だろうか。それも、スポーツ選手や武道家や軍人のような訓練された身体ではなく、頭と切り離されたり、理性の制御を受け付けないような、あるいは単に惰弱な身体による思考とは、いったい何だろうか。

 一人で語っていても何もわからないという前提で物語は進む。つまり、回ごとに語り手が代わっていき、まるで語りの終着点ないし中心を求めるかのように、デュラハンの首とダラーズの頭を探し求める物語は展開していく。こうした多元的な語りは多くの登場人物たちを複線的に結びつける傍で、池袋を行き交う膨大な数の人々を灰色のモブとしてしか表象せず、また一応は主人公のようであるらしい帝の影を相対的に薄めていくわけだが、前半のクライマックスである第10話において、匿名的な群衆たちが文字通り一気に色づき、中心の無い組織としてのダラーズと、頭の無い都市としての池袋がほとんど重なるかのように姿を現す時、ひとつの暫定的な回答が、仮の中心としての帝の正体とともに提示される。少なくとも常人にとって、身体で考えることとは群体で考えることであり、インターネットという口なき声が反響し合う空間は、都市と同様にその格好の場となる。

 しかし、それはあくまでメーリングリストや掲示板など匿名的なコミュニケーションのあり方を前提とした場合であり、声が口と連結されはじめると、あるいはその繋がりが重視されはじめると、話は変わってくる。群体での思考と行動の可能性に気づいた個体が他の個体をある程度制御する力を手にしてしまうと、多くの個体はできる限り制御の権能に接近しようとすると同時に、自分たちと他の群体との間の境界を可能な限り明確にし、自分たちの身体=組織(corpus / corps)を拡大しようとする。キリストの身体であろうとしたカトリック教会に代表される諸組織が中世初期以降の西洋で、あるいは条里都市を築いた皇帝と臣下たちが古代以降の東洋で行ってきたように。帝・正臣・杏里が潜在的な三つ巴状態となる第12話以降——そして敷衍すれば第2期の最後まで——で描かれているのはそうした状況であり、そこでは首のない物語の集積=資料(corpus)が忘れていたはずの、いつまでたっても身体を制御しきれないコギトの苦しみ、何者かになりたいという欲望が回帰してくる。おそらくそれは、もともとは口なき声がものを言わす場所であったインターネットが口の大きな有名人たちや巨大企業の支配する劇場となっていった過程と軌を一にしており、私たちはけっきょく再び巨大な身体の口か手足=一員(membrum / member)に収まりかけているし、そうした場を離れて一人で思考しようとしたところで、自らの頭と身体を切り離すことは難しい。ただし、声を口から切り離す機会、言い換えれば「こいつ誰だよ」と「誰でもいいけど」の間に言葉を残し積み重ね編成していく方途は、なんJ民すらTwitterの提供するひとつながりの口と声に頻繁に飛びつかずにはいられなくなっている現在でもまだそれなりに確保されているように思える。第2期の最終話で静雄が引きずっている赤い自販機に書かれた、「コラララ‼︎」という言葉は、その一例ではないだろうか。