繊毛虫のアニメ批評ブログ

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〈物語〉シリーズ セカンドシーズン: 信じることを信じること

放送期間:2013年7月-2014年8月、全28話+総集編3話

制作:シャフト

総監督:新房昭之、監督:板村智幸

原作:西尾維新『猫物語(白)』、『傾物語』、『囮物語』、『鬼物語』、『恋物語』、『花物語』(講談社BOX、2010-2011年)

 

〈物語〉シリーズは、一見するとミソジニー的・女性恐怖症的な価値観で満たされている。近づきがたいほどにクールで美しかったり、ものすごく優等生だったり、スポーツに秀でていて爽やかだったり、とても可愛かったりする女の子たちには何か裏があるはずだ、まともでない力が潜んでいるはずだ、日々の生活で抱える問題や精神的負担を自分だけでは解決できないはずだ、という邪推を具現化するかのようにして彼女たちのもとに怪異が出現し、それを正義感と包容力のある男性である阿良々木が解決する、というのが基本的なプロット構造だ。ただし、第一作の『化物語』では、阿良々木は少し頼りないというか、わりとダメな雰囲気のある少年として描かれていた。戦場ヶ原や八九寺や神原たちにはよく頭の悪さや友達の少なさ、存在感のなさをからかわれていたし、妹たちからの扱いもそれほど良くはなかった。また、怪異が引き起こす事件の解決は基本的には常に忍野に頼る形で果たされており、阿良々木には正義感と責任感はあっても、周囲の力を借りずにそれを押し通すような力が決定的に欠けていることが常に強調されていた(後述するように、それでもなお行動する姿に惚れるというのは、理解できる)。一方、『偽物語』になると、そうした欠点がどんどん後景に退いていくと同時に頼もしさが強調されるようになり、妹たちからも尊敬と好意の眼差しを向けられるようになる。そして、セカンドシーズンの「まよいキョンシー」や「つばさタイガー」に至ると、多かれ少なかれ阿良々木が要因のひとつとなっているとはいえ、女性たちの抱える問題を彼がヒーロー的に解決し——この時点の彼には、時に忍の力を借りる形ではあれ、そうした力が与えられているし、忍に関しても自身の男性的魅力で従わせている部分があることは否定できないだろう——、戦場ヶ原という彼女がいながらも他の女性たちを周囲にとどめておくというプロットが反復され、ミソジニーを下敷きとしたハーレム的構造が強化されていく。その様子は観ていて痛々しい。

 しかし、「なでこメドゥーサ」では、そうしたミソジニー的構造が明らかに意図的に前景化される。つまり、「かわくて、物静かで、黙っていれば得をする生き方をしているような撫子」という、もしかすると視聴者がそこはかとなく抱いていたかもしれない、あるいは私たちの社会においてもひとつのステレオタイプとして誰かに押し付けられているかもしれない見方が、扇や忍や月火の口を通す形で明示される。そして決定的なことに、撫子を唆していた蛇は彼女がお札を食べて具現化するまでは実在していなかったのであり、彼女が自力で制御することのできない感情と情動こそが怪異を生み出した、という、他の話ではあくまでミソジニー的視点を読み込んだ場合の、つまり作品世界に対してはメタ的なものにとどまっていた、怪異=女性が抱えきれない精神的負担と力の具現化、という仮構的プロットが、作品内でも現実のものとなる。そして、物語のモードのそうした変化は、時間軸的には「なでこメドゥーサ」に続く、セカンドシリーズ全体のクライマックスとなる「ひたぎエンド」における、阿良々木の主人公の地位からの完全な失墜に直結している。まず形式的な面からいえば、この話で語り手を担い、また中心的人物として活躍するのは戦場ヶ原の依頼を受けた貝木であり、斎藤千和と三木眞一郎が歌う80年代ラブコメアニメ風のオープニングは一見するとギャグっぽいが、最終話を含め、エンディングで最初に表示されるキャストは常にこの二人である。そして、これまでの〈物語〉シリーズのほとんど全ての話に当てはまるが、阿良々木はあくまで他人≒女性を、自分の責任感と正義感と男性的欲望に縛り付ける形でしか救うことができず、上述したようにそうした姿勢は『偽物語』からは徐々に、押し付けがましく父権的なものとして表象されるようになっていたが、恋の恨みゆえに蛇神と化して自分たちを殺そうとする撫子を助けようとするこの物語においても、彼はその姿勢を崩すことはない。というか、それ以外の姿勢など持つことができない。責任感の裏に人間関係上の無責任さと楽観視を孕み、それゆえにいつかは他者の気持ちを踏みにじることにしかならないそうした姿勢は当然、破滅を引き寄せることになる。つまり阿良々木は、ヒーロ的であるがゆえに主人公として自らの首を知らず知らずのうちに絞めていることになるが、そうした彼を後景に退かせながら破滅を食い止めるのが貝木だ。あくまで詐欺師として作戦を立て行動し、土壇場で撫子を騙すことに失敗した貝木は、撫子が誰に対しても秘密にしていたクローゼットの中を見ることで知った、撫子には他ならぬ彼女自身の夢、漫画家になるという夢とそれに見合った才能があることを思い出させ、その夢は人間に戻らなければ、そして自分の意志で行動しなければ果たせないものであることを自覚させる。それは、結局は自身の正義感に基づいて行動しているだけの阿良々木などには縛られる必要の全くない、撫子自身にしか実行することのできない、人生を賭ける価値のある夢であり目標であり、撫子は阿良々木という男性の論理から抜け出す道を自分自身でしっかり確保していたことが明らかになる(この最終場面で神社に現れた阿良々木は、彼女の前から姿を消すように言う貝木に対して、この期に及んで「自分には撫子を見守る責任がある」といった旨のことを言い食い下がるが、貝木に一蹴されるその様子は非常に滑稽だ)。ただ、だからと言って撫子は男性に救われたのでは決してなく、貝木はあくまで元々あった動機を掘り起こしただけだし、プロット=策略の操作の面で言えば、どうやら伊豆湖が全てを仕組んでいた節もある。

 ただそのうえで、そんな残念な——残念さが残念さとしてコミカルに回収されることすらないほどに残念な——キャラである阿良々木に真剣な思いを寄せている戦場ヶ原については、どのように考えればよいだろうか。そこまで直接的な根拠が見いだせるわけではないためある程度解釈が含まれることにはなるが、まず、彼女が惹かれたのは、必ずしも自分にその力があるかわからない状況であっても他人を助けようとする阿良々木の姿勢であって、実際に彼が問題を解決できてしまうこと——ましてや欺瞞的な責任感に根ざした男性的影響力を周囲に及ぼしてしまえること——については特に肯定的に評価しているわけではないのではないだろうか。そして、そのうえで彼女は、かつての撫子のように、自分の全てを阿良々木に託すといった生き方をしているわけでは決してなく、あくまで、自身の大切な部分を誰かに賭けるという生き方を実践するうえで阿良々木を選んでいるのではないだろうか。言うまでもなく、その二つには決定的な違いがある。貝木が電話で冗談交じりに言っていたように、大学入学後に二人があっさり別れ、彼女が別の人を選ぶ可能性も十分にある。実際、どうやら彼女はかつて貝木のことを本当に好きだったようだが(彼女は貝木に対して、撫子の件で協力してくれることに対して礼を言いながらも、家族の崩壊を招いた彼の行動——実はそれも善意に根ざした行動で、ひたぎを救うためには母親を彼女と父親から引き離すしかないと判断したらしいということが、余接との会話で示唆されるが——については一生恨みつづけると宣言するが、そうした態度はもともと相当の信頼や愛情を抱いていた相手に対してでないと向けられるものではないだろう)、貝木は阿良々木に恋する彼女の様子を、まるで初恋をしているみたいだ、と撫子に——半ば独り言のように——説明し、人間は何度でもやり直せる、他人に縛られることなどないのだと語りかける。つまり、ある意味で阿良々木は、上記のような生き方を実践するひたぎに信頼されながらも試されていると言えるのであって(ただしそうした「試し」は、本当に信頼しないと実践し得ないものだ)、そこには失望と別れの契機が常に潜んでいる。そして貝木は、ひたぎのそうした姿勢を信じている。ただし、彼は自信を信頼できない語り手と呼ぶ、信頼できないかどうかもわからない語り手であり、彼が〈恋物語〉——誰の恋だろう?——を語りながらごく間接的に示唆したこのような信頼のあり方が信じるに足るものであるのか、その判断は私たちに委ねられている。