繊毛虫のアニメ批評ブログ

簡潔な作品論を定期的に投稿します。

『とらドラ!』:水平面の織り目とその複層化

放送期間:2008年10月-2009年3月、全25話+OVA1話

制作:J. C. STAFF

監督:長井龍雪

原作: 竹宮ゆゆこ『とらドラ!』(電撃文庫、本編10巻+スピンオフ3巻、2006年-2009年)

 

演出・脚本・背景、どれをとっても素晴らしいアニメですが、特に文化祭編の完成度は非常に高いものだったと思います。二学期のはじめ頃までは、竜児の方が大河の気持ちの動きを見守るという側面が強いように見えますが、実はその裏で大河も竜児のことをずっと気遣っていたこと、父親と決して楽しいとはいいきれない時間を過ごすという代償を払ってまでも竜児の気持ちを尊重したこと、竜児もそれに気づき後悔するがあくまで自分の軽率さを恥じる気持ちが強い一方で、大河は文化祭が終わりにさしかかる頃には父親に再び裏切られた寂しさからもうすでに少し距離を置いて、北村を好きな気持ちさえも少し脇に置いて、竜二や北村やみのりや亜美が自分を気遣って必死で行動してくれたことに心から感謝していること、それだけでなく、彼ら彼女らにもっと自身のことを気遣っていいんだと頭の中で語りかけていること——こうした心情の綾が、プロレスショーからミスコン、徒競走、ダンスという一連の流れの中で、余分なもたつきを一切ともなわずに織り上げられていると言えると思います。また、キャンプファイヤーを背にして北村を見る大河の澄んだ瞳には、そうした過程の全体が圧縮されているような奥行きが感じられます。

 

ただ、こうした学校行事はもちろん、最後の駆け落ちに関しても、結局は若いエネルギーに溢れた高校生たちによる青春劇の枠内を出ないかもしれません。しかし、第1話の冒頭からコンスタントに登場していた竜児の母・泰子が、最終的な局面でしっかりと物語に食い込んでくることで、そうした水平的な織り目を成す同世代間の人間関係が、一気に人生の先の方向、垂直方向へと引き伸ばされているように思います。泰子が16歳で年上の暴力団員を相手に妊娠して高校を中退し、両親から勘当された後で働きながらひとりで竜児を育ててきたこと、そして今でも不安や弱さを抱えながら、それを竜児にはなるべく感じさせないように努めてきたことは、いくつかの断片的な会話や回想によって示唆されますが、そうした人生の軌跡は、大河と竜児がいくつかの局面で口にする、ふたりで未来を生きていくという意志の表明を相対化するとともに複層化すると言えます。竜児たちの言葉は、冷めた目で見れば、気持ちの高揚した高校生が口にする裏付けを欠いた夢想的なものに響くかもしれませんし、時間が経てば何らかの形で忘れ去られてしまうものかもしれませんが、そうした意味で今後どうなるかわからないふたりを見守る泰子の視座が視聴者と大河たちの間に差しはさまれることで、そのようなアイロニカルな見方をひとまずは宙吊りにして竜児と大河の幸福を願うこと、また、どのような形であれ生きてさえいけば、泰子のように不恰好かもしれない(もちろん、全くそうではないかもしれませんが)ものであれ、何らかの人生が形づくられていくのだと考えることが、私たちにとって可能になっているのではないでしょうか。

 

最後に、大河役の釘宮理恵さんの演技は、基本的な声の作り方はもちろん、通常の話し方を微妙に逸脱する際の微妙な声色まで、本当に本当に素晴らしかったです。竜児役の間島淳司さんは非常に安定しており、終始デフォルトの喋り方や声色を崩さない感じでしたが、釘宮さんとのコントラストという点で素晴らしかったと思います。